御祭神

国家公共に尽くした人の心霊
四万千八百七十四柱

《正殿》明治戊申の役以降国家公共に尽くした人の心霊
《相展》公務殉職者の御霊 五十四柱を奉斎する

全国の各都道府県の護国神社はほとんど明治維新の当時に招魂社として創建され、戦前より慰霊の祭儀が行われていました。しかし宮崎県では、治維新の当時、小藩分立の状態であったなどの事情もあり、県内全域の御霊を祀る招魂社は創立されていませんでした。

昭和16年12月、大東亜戦争の勃発により戦没者の数が非常に増加し、護国の英霊に対する感謝と敬仰の念が深まり、その県民の要望に応え、当時の知事をはじめ各県の代表者らが護国神社建設奉賛会を設立。昭和18年4月内務大臣の許可を得て、宮崎市下北方の高台(現:大宮中学校)に鎮座地を定め、建設工事に着手しました

しかしながら、建設途上において昭和20年8月15日の終戦を迎え、日本が連合国の占領下におかれるとともに、建設を放棄されるのを余儀なくされました。その後、昭和26年講和条約の発効をみるに至り、昭和28年4月県民の浄財をもとに、護国神社の再建が行われ、昭和30年3月に竣工、鎮座式が執り行われ今日に至ります。